連載小説始めました。

最近、曲のアップ情報以外あまり書くことがなくなってきたので、何もアップしないよりはいいと思うので不定期連載小説を始めます。ちょっと昔病み気味だった時期に小説を書いてたんですが、これはその2作目です。

この作品は曲を書くようになってから長いこと放置しててまだ完成してませんが、すでに二万六千字くらいは書けてるのでしばらくは連載は滞らないと思います。文章を直しつつきままに更新していきます。


題名はまだ決めてませんが、とりあえず「ナイアガラの星空と、あまりにも無意味な死」とでもしときましょう。






「ナイアガラの星空と、あまりにも無意味な死」

                   

「夢」という単語を聞いて、自分の望む将来像の方の夢を想像する人と、夜に見る夢の方を想像する人の二種類に分かれるのではないかと思う。前者の夢は意識的なものであるのに対して、後者は無意識的だが、どちらも内省的で想像的だ。その二つの「夢」は、それぞれ全く違う意味なのに、その点では共通点がある。「内省的で想像的な自己」という母親から生まれた、性格・容姿・男女の別がある二卵性の双子のようなものだ。しかしマサヒコにとってはそのどちらの意味の「夢」も嫌いだった。前者は未来のことであるがゆえに非現実で、後者は言わずもがな非現実の世界だからだ。マサヒコにとって一番確かな意味での「夢」は、紛れもない「現実」だった。「全てが思い通りになるはずの現実」こそが「夢」だった。

天才になる。ものを書く天才だ。「天才に『なる』」という文章に人間があまりしっくりこないのは、天才か天才じゃないかは、生まれつき決まっていると考えている人が多いからだと思うが、それは違う。天才にはなれる。くだらない知識は何一つ持たないけど誰にも考え付かないようなぶっ飛んだ話を書けるような天才には。それは、IQが二百あってもIQがたったの二十でも考えつかないような話だ。恋や愛や命や死について書くのはもう飽きた。人の命は地球よりも重いというが、それなら何で六十憶も居る人間の重みで地球がつぶれないんだ。
昔からずっと、生命賛歌の物語を人間は書き続けている。仮に悲しみを書いても、絶望を書いても、それは生命賛歌だ。絶望や悲しみが全くない人間は生きていくのがつらくなっておそらくすぐ自殺してしまう。たとえば、僕は機械になりたい。0と1の電気信号によって構成されている演算機能にすぐれた機械にしか考えつかない話があるかも知れない。たとえば僕は、蚯蚓になりたい。夏の日に、どぶからどぶへ移動する間に干からびてしまおうとする瞬間の蚯蚓にしか考えつかない話があるかも知れないから。世界を変えるのは簡単だ。たとえば機械や、蚯蚓の気持ちになってみる。右から見ていたものを左から見る。目で見ていたものを思想で見る。僕が書きたいのは、決して生命賛歌ではない。起承転結がはっきりした完璧な論理性と完成度を持った話でもない。ただ、常識を否定して、ある種の「気づき」を与えることのできる文学だ。「気づいた」時点で世界は変わる。そんな話は全くもって凡人の僕にもいつか書ける。天才になることは、たぶん世界を変えることくらい簡単だから。



そんなことを考えている一人の男が、文学に殺される話。
この男を主人公に据えたストーリーで彼は、一体どんなにアバンギャルドで、誰にも考えつかないことをしてくれるのだろう、と普通は思うかも知れない。しかし、そうはならないのがこの男だ。自分のことを「凡人の僕」と呼んだこの男はちょっと文学をかじった本当の凡人だからだ。むしろ彼自身のストーリーを劇的にするのは、凡人でも天才でもない、彼を取り巻く「普通の人間たち」だ。絵に描いたような凡人は狂いさえしないが、「普通の人間」は往々にして今まで狂ってきた。愛に、思想に、主義に、宗教に。
この男の言う、「気づき」に似たような意味合いで、「何かしらのタガ」がはずれた普通の人間は簡単に狂う。すると、ストーリーも簡単に狂う。
「僕たちはみんなキリストであり、みんなヒットラーなんだ」これはジョン・レノンの言葉だ。